2026年 9月

でんきちBRANCH調布 三鷹通り店【家電量販店でんきち】です。

三鷹市を歩いていると、「上連雀」「下連雀」「牟礼」「大沢」「井口」など、さまざまな地名を目にします。

普段は住所や駅名として何気なく使っているこれらの地名ですが、その一つひとつには、この街がどのように形づくられてきたのかという歴史が残されています。
今回は、そんな「三鷹の地名」に注目してみたいと思います。

中でも興味深いのが、現在も三鷹市の中心部に残る「上連雀」と「下連雀」という二つの地名です。
なぜ同じ「連雀」なのに、「上」と「下」に分かれているのでしょうか。その背景をたどると、江戸時代の三鷹へとつながっていきます。
 

・「連雀」はどこから来た名前?
「下連雀」の歴史をたどると、江戸時代の明暦の大火に行き着きます。
1657年に起きた明暦の大火によって、江戸の神田連雀町も大きな被害を受けました。
その後、被災した人々の移転先として武蔵野の土地が開発され、1658年には「連雀新田」と呼ばれる地域が成立しました。

現在の下連雀という地名は、この「連雀新田」に由来するものです。
つまり、現在の三鷹市下連雀という地名には、江戸で起きた大火と、その後の人々の移住、そして新しい土地の開発という歴史が刻まれています。
何気なく目にしている「連雀」という二文字から、江戸時代の出来事までたどることができるのです。
 

・では「上連雀」はなぜ「上」なのか
下連雀が開発された後、その西側の土地でも開発が進み、「連雀前新田」と呼ばれる地域が生まれました。これが現在の上連雀につながっています。

上連雀と下連雀は、もともと別々に生まれた土地でしたが、どちらも「連雀」という名前を受け継いでいます。そして、江戸時代の記録では、現在の上連雀にあたる地域が「連雀前新田」と呼ばれていたことが確認されています。その後、「上連雀」「下連雀」という名称が使われるようになりました。

「上」と「下」という言葉にも、当時の位置関係や地域の成立過程が関係しているとされており、地名だけを見ても、この地域が一度にできたのではなく、開発の進み方によって少しずつ形づくられていったことが分かります。
 

・地名から見えてくる、江戸時代の三鷹
現在の三鷹は住宅地や商業施設が広がる都市ですが、江戸時代には今とは大きく異なる景観が広がっていました。
三鷹市域では、古くから成立していた牟礼や大沢などの村に加え、江戸時代に新田開発によって新しい村々が次々と成立しています。
上連雀や下連雀も、そうした土地の開発の歴史と深く関係しています。

現在の住所を見ただけでは、そこがかつてどのような場所だったのかを想像するのは難しいかもしれません。
しかし、地名を手がかりにして歴史をたどってみると、現在の道路や住宅街の下に、かつての村や新田の姿が重なって見えてきます。
 

・「大沢」「井口」「牟礼」にも歴史がある
三鷹の地名は、上連雀・下連雀だけではありません。
例えば「井口」は、江戸時代に上連雀村の井口権三郎が開発したことから「井口新田」と呼ばれるようになったとされています。
また、「大沢」は三鷹市域に古くから存在した村の一つです。

「牟礼」も三鷹地域では古くから成立した村の一つとされており、その由来については諸説ありますが、現在も地名として残っています。
このように、それぞれの地名を調べてみると、土地の開発や人々の移住、村の成立など、異なる歴史が見えてきます。

三鷹という一つの街の中にも、地域ごとに異なる時間が積み重なっていることが分かります。
 

・「三鷹」という名前にも歴史がある
もちろん、「三鷹」という市の名前にも由来があります。
三鷹という名前が使われるようになったのは明治時代で、1889年の市制町村制施行にともない、上連雀・下連雀・井口新田・深大寺新田・大沢・野崎・新川・中仙川・北野・牟礼の10カ村が合併して「三鷹村」となりました。
「三鷹」という名前は、かつてこの地域が徳川家の鷹場であったことに関係するといわれています。

現在の三鷹市という名前も、こうした地域の歴史の積み重ねの中から生まれたものです。
 

・いつもの住所が、少し違って見えてくる
普段は「上連雀」「下連雀」と聞いても、それを歴史的な地名として意識することは少ないかもしれません。
しかし、その名前が生まれた背景を知ってから街を歩いてみると、いつもの景色も少し違って見えてきます。

駅まで歩く道、住宅街の交差点、何気なく見ている町名表示。
その一つひとつが、江戸時代の新田開発や人々の移住、村の成立といった長い歴史につながっています。
 

三鷹の街を知る方法は、有名な場所を訪れることだけではありません。
普段暮らしている場所の「名前」に目を向けてみることも、この街を深く知るきっかけになるのではないでしょうか。